S'adapter (整える)~Growing with nature~

ABNLP公認スクール S'adapterの信念はモチーフの~LOVE central~【真心と愛情】そして自然(自ずと然るべく)成長するあなたを信じ講座開講、カウンセリング、セラピー、コーチングを行っております

anniversary

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毎日、生きてるといろいろなことに遭遇します。

 

そんな中で生まれてくる

【嬉しい!】【たのしい!】といったポジティブな感情から

【つらい・・】【苦しい・・】といったネガティブな感情まで。

 

だからと言って

ネガティブな感情やそのような思考が決して悪いとはいえません。

 

その感情とあなたがどのように向き合うか?でベクトルが変わるから。

 

 

 

 

『もうすぐ、1年になるんだなぁ・・』(大阪に引っ越しして)

 

感慨にふけっていたとき、ツレが

 

『3/9やろ?』『なんかごちそうしてくれてええで?』(笑)

 

『んあ?』

 

とは、言いながらも【覚えてたんだなぁ・・】と思ったものです。

(家族の誕生日すら、忘れている人なので(汗・・

 

 

言われたからというわけではないのですが

これまでの感謝の意味を込めて

ライオンとクラウンのマークが目印のディナーの予約をいれました。

 

 

【anniversary】

 

毎日がだれかにとっての記念日。

 

 

生まれた日は【誕生日】

この光あふれる世界から祝福をもらい始める日

 

1歳になればお餅を担ぎ、初参りをして

 

3月には女の子のお節句

5月には男の子のお節句

3歳・5歳・7歳になれば千歳飴をもらってすくすくと成長することを願う

 

入学式でちいさな身体に大きなランドセルを背負い

毎日、無事に帰ってくることを祈り

毎日、元気でいることを願い

 

12歳で小学校を卒業し、中学校へ進学する

 

学業に遅れないだろうか?部活動では活躍できているだろうか?

お友達から仲間はずれやいじめになどあっていないだろうか?と

心配され

 

高校、大学、専門学校や就職など目指したいところへと向かうたびに

なにかしらの【anniversary】

 

初恋をした日

初めて唇を濡らした日

初めて唇を噛んだ日

悔しくて泣き崩れた日

うれしくて駆け出したくなった日

楽しくて笑い転げた日

怒りがマグマのように噴火して叫んでしまった日

大好きな人と結ばれた日

仕事のプロジェクトが成功した日

 

毎日、毎日がだれかにとってなにかの【anniversary】

 

そのときはつらく、苦しい出来事でも

時がすぎ、あなたを取り巻く状況が変われば

そんな出来事も自然と口からこぼれおちるようになる

 

 

不思議とこんなことを書きたくなったのは

 

 

時がすぎ

【想い】が浄化され、【昇華】されたからだとおもいます。

 

 

きょう、3/2は祖母の命日

あす、3/3は父の命日

 

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どんな因果があるのでしょう。

 

 

父のお葬式にグチをこぼしていた母に、別れ際

『おばあちゃんにお父さん、連れていかれちゃったね・・』と

ふいに口をついて出た言葉。

母のちいさな体がわたしの腕の中で小刻みにうなずいたのを覚えています。

 

 

父は一人息子で祖母は口にせずとも溺愛していました。

そんな様子は母からも幼い頃から聴かされ、育ってきましたので

高校生の時分に祖母と同居をするようになってからも

その行動で読み取ることができました。

 

父にとってはうっとうしかったようでした。

 

それでも、年老いた祖母を熊本の家においておくのが不憫だったのかも

しれません。

 

祖母は認知症になりました。

 

強く、同居を勧めた姉も

その頃は仕事が忙しく、祖母の相手をする時間は限られていました。

 

唯一、運転を許されていたわたしが母と共に

祖母を病院へ連れていったりしていました。

 

家の中でもこれくらいの時間になると毎日のように

一緒に【水戸黄門】を見ては

あっちの世界(認知症の症状的な)に行っている祖母の話し相手をしていました。

 

祖母の若かったころの写真を見る機会があって

それは全盛期の美空ひばりさんのようにカッコ良く

大きなバイクの前でその美しい容姿からは笑顔がこぼれていました。

 

祖母は容姿の美しさに執着していたのでしょう。

認知症の症状のひどい時、自分の姿を鏡で見て驚いたようで

2階のベランダから鏡台を投げ捨てました(下にだれも居なくて本当によかった)

 

近所の薬局に行っては、

アイブロウ(まゆずみ)を買ったり、取ってきたりしていたようです。

 

最期は、母が留守になるため、介護施設のショートスティを利用中に亡くなりました。

睡眠導入剤の過剰摂取によって、心臓に負担がかかり

「あつい、あつい・・」と服をぬぎ、施設内を走りまわったそうです。

 

わたしは施設側の責任だとおもっていません。

 

 

施設にお願いする際のコミュニケーション不足によるものだと認識しています。

 

 

 

その年は、姉の長子が生まれた年でした。

輪廻転生を感じた時でもありました。

 

 

父が倒れたとき、わたしはNLPを学びはじめたころでした。

 

離婚の際に、父から縁を切られ、

家族のだれもがわたしの【真実】を話しても

信じてもらえなかったことへの疑問から学び始めたのです。

 

 

そのときはすでに、家族に対する【価値観】の変容が起き始めていました。

 

 

 

父は倒れた際も、救急車では搬送されず、タクシーを呼び

自力で着替え、入院をしたそうです。

 

とても、そんなことができるとは思えるような状態ではありませんでした。

左半身の筋肉はすべてこけ落ちていて感覚がないのです。

 

それでも、気力だけで行ったのでしょう。

 

わたしが奈良から病室へ向かった先はICUでした。

 

『こんなになるまで、一緒に暮らしていた家族は何をしていたのだろう?』

思いました。

 

母は『あんたの事を心配してこんな身体になったんだ!』と責めました。

姉は『さすってあげなくていいの?とか言いながら、こんなところまで来て、メールを打っているなんておかしい。』と批判しました。

 

たしかにそうかもしれません。

離婚して、子どもを東京に残し、単身、奈良へ引っ越して

そこで一人で生きていくことで必死でしたから。

 

そして、すっかり記憶から消えてしまっていたけれど

 

確かにわたしは父の足をさすって『感じる?』と聴いていました。

NLPを学んでいた者として、確認していたのです。

 

そして父は

『お前のせいでこんなになっちゃったよ・・』と半分、筋肉の落ちた顔で

懸命に笑顔をつくってわたしに見せてくれました。

きっと、わたしの顔がひどくおびえていたのだと思います。

 

翌日、訪れたときには父の意識のレベルは下がっていて

それまで抑圧していた欲求を噴き出すかのように

 

『マウス(パソコンの)取ってくれ!』

『肉が食べたい!』

『タバコと灰皿取ってくれ!』とわたしに懇願してきました。

 

暴れるものですから、病室では抑制帯をつけられていました。

あれは、医療に従事した方でないと見るに耐えがたいものがあるかとおもいます。

(治療の妨げや事故防止のためにつけるものです。

 経管栄養で父も栄養を摂取していましたので、チューブが絡まったりすると事故になります。)

 

看護士さんにお願いして、すこしの間だけ抑制帯を外してもらい

『つぎに来るときは、松坂に寄ってステーキ買ってくるから、早くこんなとこから

出ておうちに帰ろうよ!』と別れ際に告げました。

 

 

もう、4年になるのでしょうか。

 

 

月日がたつにつれて・・

 

『こんなになるまで、一緒に暮らしていた家族は

 何をしていたのだろう?』

 

その想いがガンガンとわたしの中で鳴り響きました。

 【後悔】【怒り】【哀しみ】【罪悪感】

さまざまなネガティブな感情や思考が生まれました。

 

 そして

NLPを学び、コミュニケーションで苦労することはなくなりました。

セラピーを学び、自分を愛することを覚えた結果、人から愛されるようになりました。

健康管理学を再度、学び直し、そこへ発酵食や酵素の働き、食物の作用を加え

コーチングのクライアントにも喜ばれるようになりました。

 

 

現在、NLP受講生募集中です。

 

フォームメーラー

 

 

 

限りある【あなたのいま】という時間今世どのように生きるのか?

 

 

 

【あなた】の指令は【あなた】が出していいのです。

 

 

それがあなたの【anniversary】になる日かもしれません。

ネガティブな感情や思考もそのベクトルを間違わないでほしいのです。

 

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